②〜メルボルンの調理学校に入学編〜

3年のNZ生活を終え、日本に帰国した私は次のオーストラリアまで『お金のための日本』と自分の中で位置付け、派遣社員として英語を使う職務に就くことができた。

慣れないPCの使い方から始まり、はじめは悪戦苦闘の事務仕事だったが、ただ総務部に所属できたことで社会がどう回っているのかを勉強できたのが本当に良かった。

海外では英会話も日常だから無料。だか日本は違う。
英語を忘れたくない不安から再びNOVAに通いはじめた。
資金を貯めるのに週末はカフェでバイトもした。
さすがに若くても疲れやストレスがあったのか、顔がカサカサになり、皮膚のかゆみがひどくなり、派遣の仕事に行けない位パンダのような顔になってしまった。

これではいけないと自分の限界を知り、ある程度休みを入れた。

NZの英語のリベンジと選んだのはオーストラリアメルボルン。

コーヒーが盛んだというのもあり、バリスタへの憧れから。
永住権がほしかったのは、安定して滞在できるから。

ただオーストラリア政府が示す永住権を出してくれそうな職種リストにバリスタはなく、自分に1番近いのはシェフのカテゴリーだと分かる。

その時の永住権取得までの流れは、
・政府が認可している調理学校2年間通う
・それに準じたアルバイト(最低週20時間)を一年半(私の場合キッチンでのアルバイト)
・期間途中と最後にIELTS(英語のテスト)で基準値以上のスコアを取る。
・すべての書類と申請金(結構する)を提出
・ただただビザを待つ。その間一時的なビザが出る。
だった。

ただこの永住権のリストは不安定で時の政府によって内容が変わりやすい。せっかく上記すべてクリアしても職種が外されてしまえば申請できない。
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帰国してから2年後、運良く日本で受けたIELTSが通り、飛び上がる気持ちでメルボルン行きの準備となった。

また行ける、”自分にはどんな可能性があるのか。”

飛び立つ飛行機の中で噛み締めた。
メルボルン到着後、バックパッカーズに泊まりながら向こうの日本ペーパーから家探し。

ただ私は一軒めのお家の家主と相性が悪く、キックアウトされた形となった。

2軒目は学校から紹介されたGleesonグリーソンファミリーの家。
こちらの家族はオーストラリアの家族と呼べる位本当にお世話になった。

今もいろいろと支えてもらっている。
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調理学校はというと、私のクラスはインターナショナルで、日本人は私だけ。
インド、パキスタン、バングラデシュ、ベトナム、中国、韓国、トルコ、タイ、オーストラリア、、All mix。
素晴らしい環境だった。
それぞれの宗教や文化、食べてはいけないもの、などなど実際その国の友人から聞けたことは宝だと思う。

生徒の中にはお互いの母国では戦争をしていたり、歴史的に仲が悪かったり。
ただここはメルボルン。
先生はいつも『お互いリスペクトをしよう』と繰り返していた。

リスペクト。印象に残る言葉だった。

それぞれ考え方が違って当たり前。
でも私ちちは出会いここで一緒に勉強している。
2年間一緒にいて、みんな同じ目標に向かってがんばったクラスメートはやはりかけがえのない存在になった。

大変だったが、私も卒業後何とか永住権を取得でき、そのおかげで就職時も苦労をすることは減った。
それだけ信用してもらえるのが永住権だった。
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写真は、調理学校で出会った友人たちや先生たち。


そしてGleeson グリーソンファミリー。おばあちゃんのEmieは幼い時スロベニアから移民してきた。彼女の得意なアップルストゥルーデルはパーティによく登場した。
この日はEmieの70歳の誕生日。家族、友人が集まりEmieをお祝いしました。
(続く)

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